こうして俺は、カープファンになった

東京生まれの俺が何故カープファンになったかって?

あんまり子供時代のことは思い出したくないんじゃが、

両親が不仲で、父親が好きだったのが巨人。

だから、俺は、巨人のことが嫌いだった。

当時、巨人の次に強かったのが広島。

それで、カープファンになりました。

野球を始めたのは、小学4年のとき。

憧れの選手は、先発ローテーションに入り始めたばかりの北別府学。

北別府は、20勝で最多勝のタイトルを獲得する1982年頃までは、針の穴に糸を通すようなコントロールはありませんでした。

どちらかいうと江川の方がコントロールは良かった。

ストレートの球速も北別府が140~141キロ、江川が143キロ前後で大差はなく、

ストレートについていえば、北別府は、西本、定岡、遠藤より速かった。

北別府のストレートは、フォーシームではなく、現在で言うカットボールのような球だった。

江川卓は、ストレートとカーブだけでしか投げなかったと言っていますが、

シュートとスライダーも投げていて、晩年には、パームボールのような球も投げていました。

当時、セリーグで最も速かったのは、小松、その次が山根。

少し後になって槇原。

パリーグでは、山口高志と言われていたが、憶えていない。

鈴木孝政は、技巧派に転向していた。

広島は、クローザーが江夏で、セットアッパー大野豊。

江夏は球遅せえな、大野は勝負弱かった記憶があります。

野球観戦で憶えているのは、中学のときに、後楽園球場で達川がレジースミスに砂を掛けられた試合を生で見たことですね。

小学校の低学年のとき、友人達が巨人、阪神、西武、ヤクルトの帽子を被っている中、一人、カープの帽子を被って、

空き地で、ビニールボールとプラスチックのバットで友人と草野球をしていていました。

当時は、カープファンなんてほとんどおらず、知られていたのは山本浩二ぐらい。

中学になって、慶彦(髙橋慶彦)の下敷きを持っている女の子がクラスに2~3人いた程度。

私は草野球でホームランを連発して、これは、いけるんちゃう?と勘違いをして、

近所のリトルリーグに入りました。

チームに入ったはいいけど、プロにいくような子は、小学6年くらいから”モノ”が違うんですね。

もう、悔しいとかそういう気持ちが起こらないくらい実力差があるんです。

プロに行こうなんて微塵も思いませんでしたね。野球は、趣味でした。

小学校時代は、硬式野球とピアノを習うという矛盾した子供でしたね。

当時は、睫毛の上にマッチ棒を乗せては、クラスの人気者になってましたね。

緒方監督と同様、メグに似てるって言われてました。

巨人の星やタッチは、テレビもコミックも見てたけど、その他の野球漫画は読んだことがないのよ。

戦隊モノとかも、とにかく退屈でどちらか言うと少女漫画の方が好きやった。

両親は、私が小三のときに離婚。

両親が実印がどうとか三文判がどうとか話していたのを今でも憶えています。

小6の頃から家族の料理を作っていて、高校を出てからもずっと一人暮らしなので、

作れない料理はありません。

祖父母からの援助があって食うのにはそれほど困りませんでしたが、生活は楽ではなかったので、

中学は、シニアではなく、公立中学の野球部に入りました。

とにかく、球が飛ばなくて(実際には私が下手なだけですが)、3年間で柵越えのホームランは、1本しか打てませんでした。

中学時代の野球の思い出っていうのは、あまり憶えてなくて、それ以外の思い出の方が多いかな。

当時は、今でいうリア充グループにいて、修学旅行のバスの一番後ろの席を占拠してましたね。

バスのカラオケでは、シャネルズとか横浜銀蠅とか歌っていたね。

中三か高一の頃、ファミコンが販売されたんだけど、買ってもらえないし、練習でバイトする暇もなかったから

やったことがなくて、全く歯が立たなかったな。

それ以来、現在もスマホのゲームはやらん。

車とか単車とかは興味がなくて社会人になって初めて仕事で普通免許(MT車)の免許取ったぐらいで、

そっち方面には入らなかったけど、一度、卒業生に集会に連れて行かれて

本当にそんなことやってる人達いるんだっていうのがありましたね。

その先輩は、何度かキャバクラにも連れていってくれました。

その先輩は、俺が中学を卒業してから、組に入っちゃったので、俺を誘わなくなりました。

当方は、高校に入って再び硬式野球を始めます。

筆者は、右投げ右打ちなんですが、高校時代は、リリーフから先発に回ったばかりの

大野豊さんの投げ方をモデルにしていました。

そう、腰をぐっと落とす投げ方な。

高校では、多いときは、270球~300球くらい投げ込んでいました。

投げるのは楽しかったですが、キツかったのは、ノックとシャトルラン。

ロードワークでは、先輩に棒アイスを持たされて、1センチ溶ける毎に一発殴られていましたね。

でも、ロードワークは、途中でサボれるんです。

シャトルランは、見られているのでサボれない。

ノックは、マスクとレガースを着けて至近距離から200本ぐらい。

試合中は、先輩のことは、部内のルールで呼び捨てですが、それ以外のときは、1コ上の先輩が一番怖かったですね。

マネージヤーは、控えの選手(男)だったので、部内恋愛とかはなかったですね。

私が現役の頃は、野球を始めてから一番最初に教えられるのが、カーブでしたが、

9年間野球をやりましたが、とうとう引退するまで投げられませんでした。

所謂、テイクバックが極端に小さくなって耳の当たりとか脇の辺りで内旋して投げてましたので、

他から、丸わかりでしたので、試合では投げませんでした。

持ち球はスライダー、シュート、チェンジアップ。

スライダーは、今でいうツーシームの握りで投げていました。

後に、伊藤智仁がプロに入ってから、新聞記者にスライダーの握りを見せていましたが、

全く同じ握りだったのが嬉しかったです。

当時、メジャーでハーシュハイザーというピッチャーがいて、

スプリットフィンガードファストボールというのを投げていたので、

俺自身は、スプリットって言っていましたね。

シュートは、今でいうワンシームの握りで投げていました。

チェンジアップは、親指、人差し指、中指で握り、人差し指と親指の間から抜いていました。

それ、ドロップやんかって?

確かにそうだったんだけど、なんか戦時中のピッチャーみたいで嫌だったので、

新聞記者に”チェンジアップが武器”に書き替えさせました。

本当は、176か177で、180センチないんだけど、出来上がった新聞を見ると182センチになっていて笑えました。

投手としては、そんなに大きい方ではないんだけど、肩幅が大きくなりすぎて、

市販の最も大きいサイズのスーツが着れなくなってしまいました。

けど、生まれてこの方、マシンを使ったウェイトトレーニングはやったことがありません。

丸太を持ち上げて下すのはやってました。

社会人になってからも面接では、いい体してるね、何かスポーツやってたの?と必ず訊かれます。

面倒くせえから「やってません」と答えてますが。

9頭身で平行二重

卒アル見ると、同級生の顔は俺の4倍。

今では、年下の正社員から軽く扱われている派遣社員だけど、

坊主にしていた頃は、モックン(本木雅弘)、渡哲也に似てるって言われてたんだぜ。

でも、胴の長さが1メートル。

高校は、公立だったので、尞もなければ室内練習場なんてありませんでした。

雨が降ると、体育館は他の部活が使っていたので、空き教室や廊下で練習で、練習が軽くなるんです。

午前中に雨が上がって晴れてくると、

授業を抜け出し、他の部員たちと一緒にグラウンドにホースやバケツで水を撒いていました。

酒もタバコも中学時代からやっていたね。

前の日の夜に、六本木、麻布、赤坂のディスコで遊んで、翌日先発して100球くらい投げてました。

中学の頃からアメリカのリズム&ブルースが好きでコピーしていて、その頃からは弾き語りで曲作り始めて。

そんなんだから、強くなれませんね。

最後の大会も予選で先発して8点取られてコールド負けしましたが、全く悔しくありませんでした。

明日から、もう練習しなくていいんだと思うと嬉しくて仕方がありませんでした。

次の日、友達と片瀬海岸に泳ぎにいったのを憶えています。

その後は、しばらく球を握らないどころか、2~3年は、野球を観なくなっていました。

再び、野球を観始めてからも、それほど深入りしませんでした。

でもカープのことは好きでした。

再び、熱心に見始めたのは、11.5ゲーム差をひっくり返された1996年です。

それから、2~3年後、長谷川昌幸を見たとき、大人になってから初めてその投球にほれ込みましたね。

そう、忘れていた何かを思い出すってゆうか。

それから十年前後して2010年~2013年当たりから巨人に毎試合のように終盤ひっくり返されて。

そのとき、筆者の自宅から電車で乗り換えなしで行けるところに実家がある、当時高校生であった一人の小僧。

もう言わなくてもわかるな。

左では、前田智徳、岩本貴裕という惚れ惚れさせられる打者がいたんだが、

永らく見ていなかった、右で王道の打者。

素人の分際で言わせてもらうと、正直、清原も落合もそんなに凄いと思わなかったのよ。

新井しかり、栗原しかり、堂林しかり。

只、数少なく魅力に感じたのが、緒方現広島監督。

東京のその少年は、高三のとき、一時、軽くオープンスタンスにしたことがあって”けしからん”と

一人ブツブツ言いながら俺は見てたな。

その選手が将来4番を打つことを予想していた人は少なからずいたが、

4番にしろと言ったのは俺がブロガーの中で初だと思っている。

その選手がレギュラーになって、もうカープの優勝を見ることはないだろうなと

思っていたところ、優勝

そして、そいつが4番に座って連覇。

子供の頃、見たカープの優勝よりも段違いで嬉しかったね。

[追記]

carp_red_28様

鈴木誠也は、先ずは、球団記録である水谷の.348、山本浩二の113打点を抜くことです。

後者の方は、1シーズン故障なく出場すれば、ほぼ100%可能でしょう。

ドジャースのターナーは、オープンスタンスで打つときとスクエアスタンスで打つときとがあって、トップが早く作れてボールを長く見れており、膝を開いて打つ打ち方は、内川に似ていて非常にいい選手だと思います。

鈴木誠也は、楽する打ち方(追いかけて逆方向に打つこと)を覚えずに、今の打ち方(スクエアで引っ張る)を極めて、メジャーでは、松井秀喜の記録を塗り替えてもらいたいです。

[追記]

山根さんは、一度肩を痛めて(ブランクはそれほどなかったように思います。)スリークウォーターにして1984年に復活して阪急ブーマーを完璧に封じたのを憶えています。

北別府さんは、1986年に、確かヤクルトだったように思いますが、3本ホームランを打たれて4回8失点?でKoされて以降、閉幕まで、11連勝か12連勝して負けなかったと思います。

このころまでは、未だストレートも141キロぐらい出ていたように思います。

阪神(最初の頃はあまり勝てなかったが)、中日、大洋には強かったですが、ヤクルトと巨人にはあまり強くなかったように思います。

打者では、田尾さんによく打たれていた記憶があります。

[追記]

関東では、広島の試合は、巨人との対戦のときしか見られませんでした。

私が野球を観はじめたのは、長嶋さんが監督になって、王さんが下降線になり始めたころでした。

それでも、王さんも田淵さんとタイトル争いをしていましたし、大型補強をした巨人に立ち向かう広島の選手たちを見て、純粋に恰好いいなと思いました。

浩二さんも、江川さんと初対戦のときには、4-0に抑えられましたが、次の対戦からは、攻略して以後江川投手から3割以上?打ったのが記憶にあります。

浩二さん以外に、慶彦さん、衣笠さん、水谷さん、三村さん、水沼さん。

投手ですと、本文で挙げた方以外ですと、山根さん、福士さん、池谷さん、高橋里志さん。

外国人選手は、ギャレット、ライトル、ホプキンス辺りから知っています。

[追記]

昔、慶彦さんには、握手してもらったことがあって、手の平がものすごく肉厚だったのを憶えています。

チーム有数の練習量というのは本当だったのだなと思いました。

野球を引退して初めて試合を生で観たのは、西武球場で行われた西武とロッテの試合でした。

知人が試合の数日前に当日観にいけなくなったとのことでチケットをもらいました。

当時西武には、メジャーリーグの実績はあるのですが、日本に来てからは、さっぱり活躍せずに西武ファンから酷評されていたブコビッチという外国人選手がいました。

外野席で試合前の西武の守備練習を間近で見ていまして、秋山さんと平野さんも強肩外野手として知られていましたが、ブコビッチの本塁送球は、矢のような送球で、秋山さんや平野さんとはモノが違いました。

日本の野手とメジャーの野手のレベルの差を感じました。